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「伴走者」「伴走する」について、深掘りして考える

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「伴走」のヒントが散りばめられている良文でコペルニクス的転回くらいのインパクトがあった文章に出会えたので、福祉の仕事をされている方のSNSより、引用させて頂きます。

①リフレクションは「ひとり」の時に発生
②「こんな伴走者は嫌だ」の20項目リスト
③「好きなこと・得意なこと・求められていること」の3つが揃うと、優れた伴走者として存在できるんじゃないか

などの表現が代表には新鮮に感じられました。
③は『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』という本でも強調されており、「好きで・得意で・社会的価値のあること」は幸せにつながりやすいそうです。

※「伴走」だけでなく「寄り添う」や「傾聴」など一見良さそうに見える言葉たちも、その意味やとらえられ方を定期的に深掘りし・見直しないといけないな、と感じました。

宇井

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【長文です。 『伴走者』のお話です】

対人支援の仕事をしてると「伴走者」っていう比喩を使って支援のあり方を表現することがありますね。

僕はこれまで実際に「伴走」したりされたりしたことがありませんでした。

やったことがないことはやってみたくなる性なので、実際にやってみました。

元日本代表の人に伴走してもらったり、走ることが習慣になってない人の伴走を実際にやってみたんです。

自分に何が起こるのか、どんな変化があるかを観察しようと思って。

テキストや音声で入力される「伴走者」と体感や情動で入力される「伴走者」ではずいぶん入力情報の質が変わるだろうなと。

元日本代表の人には何度も伴走してもらいました。

1回目の伴走は、自分のことに必死でとにかく苦しい、走り終わった後には呆然とする感じでした。

伴走者は後ろにいて僕からは見えません。

というか、見てない。

見る余裕がない。

僕は伴走者のことなんて気に留める余裕がありませんでした。

4回目くらいから伴走者が僕の前を走り始めました。

ペースを指示されて、「着いてきて」と言われました。

僕にとっては「かなりきつい」のペース。

背中を追うと引っ張られるように走れました。

「走れてしまった」という感じです。

伴走者は一度も後ろを振り返らず、ときおり腕時計を見てペースを確認するだけでした。

そのとき僕は、自分の実力だと思っていたラインを少し越えることができました。

7回目くらいから、伴走者は僕と並んで走り始めました。

おしゃべりしながら、気楽な感じで、僕のペースに合わせています。

いつのまにか僕は「僕のペース」があることを自覚していて、自分のペースであれば長く走り続けられることがわかってきたことに気づきました。

そこで初めて伴走者のことを気遣い始めるようになります。

「師匠、ペース遅くて気持ち悪いでしょ?師匠の気持ちいいペースで行って下さい。僕はこのペースであと6km行くんで。どぞ!」と隣を走る伴走者に伝えました。

すると師匠は「じゃあ…」と言ってご自身の「気持ちいいペース」で走り始めました。

あっという間に見えなくなります。

僕は驚き、愕然としました。

「気持ちいいペース」があの速さなんだ…

あれであと6km走れるんだ…

同じ人間なのに、どこにこんな違いがあるんだろう?

一体オレは何なんだ…

と一人で走りながら考えました。

そう、リフレクションは「ひとり」の時に発生したのです。

「僕の場合は」ですから一般化はできませんが、伴走されている間は、それが前であれ隣であれ後ろであれ、「走りながらリフレクションする」は発生しませんでした。

ひとりになったときに、はじめて師匠の走り方をイメージし、自分の四肢の動きを確認し、師匠と自分の四肢の動きの違いを比較しはじめました。

客観的に自分を捉えることが「走りながら」できるようになったのは、師匠が遠く離れたときでした。

「伴走」というのは、「ずっと一緒にいること」だけではなくて、時に離れることで「伴走」が強化されるのかもしれません。

それまで一緒にいるときは、「師匠が僕を速く走れるようにしてくれる」という気持ちがありました。

「教えてくれるんでしょう?」という依存心もありました。

でも、ひとりにされた時に「そうか、結局、僕はひとりで走らねばならぬのだな」という気持ちになりました。

自立心のような強くて高貴なものではなく、どちらかというと諦めに近いような気持ちです。

そしてまた、風のように走り去った師匠を見て、「あのように走れるようになりたい」という憧れを強く感じました。

その時は駒沢公園の周回コースを走っていて、僕は合流ポイントで師匠を待っていました。

遠くの方からこちらに向かって走ってくる師匠が見えました。

たくさんのランナーに囲まれている中で、師匠の走りはやはり異質でした。

全然ぶれない。

頭が上下しない。

背は低いのに大きな走りで地面を蹴り、膝の位置が高い。

余計な力が入っていない。

そして、速い。

師匠が撮ってくれる自分のランニングフォームは、真逆です。

「ま、当たり前だよね、だって元日本代表だよ?」と思う反面、「あんなふうに走りたい」と憧れを感じました。

憧れドリブン、とでもいいましょうか。

僕にとってはこの「伴走」の出来事が自分の走り方について理知的・客観的に振り返る動機になっています。

そして、走ることそのものについて、「自分のペース」が見つかったこと」が「伴走」によって得られた今の所の僕の最大の「成果物」でした。

師匠は無口です。

プロフィールに「元無愛想」と書くほどです。

余計なことはまず口にしません。

僕はそれに噛み付いたこともあります。

「釣り竿で斜め45度から引っ張られるイメージです」

「あのさ、師匠は釣り竿で斜め45度から引っ張られたことあるわけ?」

「ない」

「ないのにそんな説明しないでよう。イメージが伝わってこない。」

が、雄弁に言語によって指導・説諭されるよりも、「実際に走ってみせる」が僕にとっては最も効果的な「伴走」だったと思います。

では、非効果的な「伴走」があるとしたらそれはどんなものだろう?

伴走される側に立った「こんな伴走者は嫌だ」を考えてみました。

1.走らない

2.脅してくる

3.罰を与える

4.褒美で釣る

5.条件を要求する

6.言ってることとやってることが違う

7.常に支配的

8.「あなたのことを思って」が口癖

9.「良かれと思って」が的外れ

10.認めない

11.アドバイスばかりする

12.苦しそう

13.バカにする

14.他人と比較する

15.自分と他人の区別ができない(エゴが肥大している)

16.いつも何かに怯えている

17.いつも何かが過剰

18.極端すぎる

19.小さな進歩を喜べない

20.思想・言葉・態度が傲慢で暴力的

そもそも、伴走される立場として僕がしんどいなと感じるとしたら、「伴走してあげようか?」と言われることかもしれません。

師匠はいっしょに走る時、何も言いません。

「伴走しましょうか?」とも言いませんでした。

駒沢公園で待ち合わせて、世間話をして最初は歩いて、ゆっくり走り始めます。

僕はそういうスタイルが好きです。

走り始めるまでが作為的じゃない感じ。

師匠は走り始めてからも自然体でいつもリラックスしています。「モチベーションをあげてやろう!」とか「走り方を改善してやろう!」とか「気づきを与えてやろう!」という感じが一切ありません。

ただ、一緒に走る。

こちらが求めなない限り、多くを語らない。

大事なことはやってみせる。

もし「たったひとつの伴走者の条件」があるとするなら、「走ることが好き」なんだと思います。

「いっしょに走ることが好き」じゃなくて、「走る」という行為そのものが好きであること。

自分が好きなことであれば伴走ができます。

そして「好きなこと・得意なこと・求められていること」の3つが揃うと、優れた伴走者として存在できるんじゃないかと思いました。

おしまい。

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